概要
長崎県と熊本県の2県6市2町にまたがり、10の集落、原城跡、大浦天主堂の12資産からなる文化遺産。17~19世紀、日本でキリスト教が禁じられた約250年間、宣教師不在のもとで共同体が在来宗教や自然信仰と共存しながら信仰を守り、解禁後に転機を迎えた歴史を伝える。独自の宗教的伝統の証拠として2018年に登録基準(iii)で登録された。
見どころ
信徒発見の舞台・大浦天主堂
1865年、浦上の潜伏キリシタンがプティジャン神父へ信仰を告白した国宝の教会堂。約250年の潜伏が終わりへ向かう転換点に立つ。
海と信仰が重なる﨑津集落
漁村の日常、神社・寺院、キリスト教の祈りが共存した集落。アワビの貝殻を聖母に見立てるなど、潜伏期の独自の信仰形態を伝える。
地理
長崎県本土の平戸・外海、九十九島の黒島、五島列島の野崎島・頭ヶ島・久賀島・奈留島、熊本県天草の﨑津、島原半島の原城跡、長崎市の大浦天主堂に分布する。険しい山地、海に隔てられた島、漁村と農村の景観は、共同体が監視を避け、信仰を維持するために選んだ生活の場そのものである。登録面積は5,566.55ha、緩衝地帯は12,252.52ha。
資産は信仰の「始まり」「形成」「維持・拡大」「変容・終わり」という四つの段階を空間的に示す。平戸では安満岳や中江ノ島という自然の聖地、天草や外海では在来宗教と重なった村、五島列島では移住先の集落、長崎では信徒発見の舞台が、それぞれの時期を証言する。
歴史
1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸し、1550年には平戸で布教が始まった。南蛮貿易とともに信仰が広がり、キリシタン大名も現れた。信徒は「慈悲の組」を意味するミゼリコルディアや「組」と呼ばれる共同体を作り、祈り、慈善、病人の世話、葬送を支えた。しかし豊臣秀吉、続いて徳川幕府が禁教を進め、宣教師は追放された。
第1段階は潜伏の始まりである。1637~1638年の島原・天草一揆では、島原半島南部と天草のキリシタンらが天草四郎を総大将として原城へ籠城し、鎮圧された。一揆の衝撃を受けた幕府は禁教を徹底して鎖国体制を確立し、キリシタン共同体は表向き別の宗教に属しながら密かに信仰する道を選んだ。原城跡はこの転換点を示す。
第2段階は共同体の形成である。平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)では山岳信仰や神道と重ねて祈り、中江ノ島は殉教地の水を採る聖地となった。天草の﨑津集落ではアワビの貝殻の模様を聖母マリアに見立て、大黒・恵比須像をデウスとして拝むなど、漁業生活と在来信仰の中にキリスト教を織り込んだ。外海の出津集落は聖画像や教理書を密かに継承し、外海の大野集落では神社の氏子を装いながら祈りを守った。
第3段階は維持と移住による拡大である。外海の信徒は人口増加と迫害を避けるため五島列島へ渡った。共同体を保ちたい潜伏キリシタンと、未開地への移住を進めたい五島藩・大村藩の思惑が一致した開拓移民政策によって、新しい共同体が築かれた。黒島の集落、神道の信徒を装った野崎島の集落跡、病人の療養地という隔離性を生かした頭ヶ島の集落、久賀島の集落、奈留島の江上集落がこの過程を示す。海と険しい地形が信仰を守る境界となった。
第4段階は潜伏の終わりと変容である。1865年、浦上の信徒たちが大浦天主堂でフランス人神父プティジャンに信仰を告白した。この信徒発見はローマ教皇へ「東洋の奇跡」として伝えられた。1873年に禁教の高札が撤去されると、共同体はカトリックへ復帰する人、仏教・神道へ改宗する人、従来の信仰形態を続けるかくれキリシタンへ分かれた。復帰した集落では教会堂が建てられ、江上天主堂などが新たな景観の中心となった。大浦天主堂は国宝である。
日本は推薦の早い段階で国内初となるICOMOSとのアドバイザー契約を結んだ。教会建築を中心とした当初案から、禁教期に信仰を支えた集落景観を中心とする構成へ改め、名称も現在のものへ変更した。登録基準(iii)は、宣教師不在でも約250年間続いた独自の宗教的伝統と、その始まりから終わりまでを一続きに示す証拠を評価する。
