概要
人類史上初の原子爆弾投下による惨禍を被爆直後に近い姿で伝える負の遺産。旧広島県産業奨励館の鉄骨ドームと壁は、市民の保存運動によって守られ、核兵器廃絶と世界恒久平和を訴える象徴となった。
見どころ
鉄骨ドームと被爆した壁
爆風をほぼ真上から受けて残った鉄骨の輪郭とレンガ壁。人類が生み出した破壊力を物質として伝える核心部。
平和記念公園から望むドーム
緩衝地帯の平和記念公園から原爆ドームへ視線がつながる。追悼と恒久平和への願いを受け継ぐ都市の景観。
地理
原爆ドームは広島市中心部、元安川沿いに立つ。世界遺産登録面積は0.4haで、周囲の平和記念公園を含む42.7haが緩衝地帯である。
建物はチェコ人建築家ヤン・レツルが設計し、ネオ・バロック様式とゼツェッション様式を併用した。レンガ造の地下1階・地上3階建てで、中央の銅板葺きドームと5階建て階段室を備えた当時としてモダンな建物だった。1915年に「広島県物産陳列館」として開館し、後に「広島県立商品陳列所」、第二次世界大戦時には「広島県産業奨励館」と呼ばれた。ヤン・レツルは1880〜1925年に生きたチェコ人建築家で、ゼツェッション様式の影響を受けていた。
1945年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機エノラ・ゲイが原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下した。爆弾は産業奨励館の南東約160m、高度約580mで炸裂し、熱線と爆風が市街を一瞬で破壊した。館は爆心地周辺で立ち残った唯一の建物で、衝撃波をほぼ真上から受けたため、垂直な壁とドームの鉄骨骨組みの一部が倒壊を免れた。
歴史
被爆後の廃墟は「原爆ドーム」と呼ばれた。崩壊の危険や惨事を思い出したくないという理由から撤去も検討された一方、惨状を後世へ伝える保存運動が広がった。投下2年後の第1回平和祭では浜井信三市長が、原子力による世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するとして、絶対平和を創造する決意を平和宣言に示した。
広島市議会は1966年に永久保存を決定した。保存を求める市民運動の署名は165万3,996名分に達し、1967年、1989年、2002年、2015年に保存工事が実施された。現在も3年ごとの健全度調査が続く。
日本が世界遺産条約を締結した1992年以後、登録を求める世論が高まり、1994年に国会請願が採択、1995年に国史跡へ指定された。1996年の第20回世界遺産委員会では、米国は登録決議への参加を見送り、中国は日本の侵略戦争に言及する声明を出したが、登録そのものには反対せず、登録基準(vi)で世界遺産となった。被爆直後に近い姿を守る遺構は、核兵器廃絶と世界恒久平和という「ヒロシマの願い」を発信し続けている。
