概要
島根県大田市に残る銀鉱山跡、鉱山町、街道、港と港町を一体で守る文化的景観。灰吹法による高品質銀の生産は16〜17世紀の国際交易を支え、手掘りの間歩と森林資源を利用した土地利用の全体像を今に伝える。
見どころ
龍源寺間歩
のみと槌の痕跡が残る江戸中期の坑道。暗い岩盤の中で、伝統的な手掘り採掘の規模と労働を実感できる。
大森の鉱山町
代官所、武家屋敷、商家、寺院が混在する歴史的な街並み。銀山を支えた政治と暮らしの姿が連続して残る。
地理
本州南西部、島根県大田市の山地から日本海沿岸まで、鉱山と鉱山町、輸送路、積出港が連続する。登録面積は529.17ha、緩衝地帯は3,134ha。銀生産に直接関わる鉱山・鉱山町、石見銀山街道、港・港町という3分野14資産からなる。鉱山跡、集落、城塞、輸送路、積出港が一体となった景観は、銀採掘に伴う独特の土地利用を示す。
銀山柵内は採掘、選鉱、製錬、精錬を行った区域で、柵で厳重に囲まれたことから名づけられた。仙ノ山には600か所を超す採掘跡、龍源寺間歩、清水谷製錬所跡、佐毘売山神社などが残る。間歩はのみと槌で掘る小規模な手掘り坑道を指す。江戸中期の大規模間歩である龍源寺間歩は全長約600mで、入口側273mを見学できる。
大森地区は代官所、武家屋敷、商家、寺院が混在した鉱山町。熊谷家住宅は街路沿いで最大の町家建築で、有力商人の地位と生活の変遷を伝える。代官所跡は17〜19世紀に幕府の役人が銀山周辺150余村を支配した場所で、瓦葺き平屋の表門と門長屋は1800年の大火後に再建された。羅漢寺五百羅漢は銀山の安泰を願う信仰遺跡で、岩盤斜面の3石窟に中央の三尊仏と左右各250体の石造羅漢坐像が並ぶ。宮ノ前地区のほか、石見城跡、山吹城跡、矢滝城跡、矢筈城跡も構成資産である。
鞆ヶ浦道と温泉津沖泊道は銀山から日本海へ銀を運んだ街道。温泉津沖泊道は全長約12kmで、温泉津・沖泊が盛んに使われた16世紀後半に整備され、西田で両港へ分かれる。鞆ヶ浦は開発初期の16世紀前半に銀鉱石や銀を国際貿易港の博多へ積み出した港で、急傾斜地の港湾集落をよく残す。温泉津は沖泊に隣接する外港として物資供給、銀搬出、周辺支配の政治的中心を担い、江戸時代の町割りと木造建築群を残す。沖泊は毛利氏支配期の外港として機能した。
遺跡群は銀生産と住民生活に用いた薪炭材の供給源だった森林に覆われる。手作業中心の小規模採掘と森林資源管理によって山林が回復し、鉱業と暮らし、豊かな自然が共存する文化的景観が形成された。
歴史
14世紀初頭に大内氏が銀山を発見したと伝わり、1526年には博多商人の神屋寿禎が開発を進めた。神屋が朝鮮半島から招いた技術者により、中国から朝鮮を経て伝わった灰吹法が導入された。鉱石を一度鉛へ溶かして銀を効率よく取り出すこの技術により、16〜17世紀に良質な銀の大量生産が可能となった。
1542年、日本国王使は約1,350kgの銀を朝鮮王国へ持ち込み、石見銀は鉄砲や中国産の生糸・陶磁器との交易にも用いられた。17世紀初頭の最盛期には年約40tという推計があり、当時の日本は全世界の銀の約3分の1を産出し、その大半を石見銀山が担ったとされる。一方、1620〜1640年頃の年間産出量は1,000〜2,000kgとする推計もある。高品質銀の大量生産は、東アジアとヨーロッパを結ぶ交易と東西間の価値観交流へ影響した。
戦国時代には大内・尼子・毛利氏が領有を争った。関ヶ原の戦い後、徳川家康が銀山を接収して幕府直轄地とし、大久保長安を奉行に任命した。17世紀初頭には大久保間歩などが開発され、銀は幕府の重要財源となった。江戸時代の鎖国政策で海外の新技術導入が遅れ、1923年の休山まで約400年間操業した結果、伝統的な鉱山開発の全体像が残った。
2007年、登録基準(ii)(iii)(v)で世界遺産に登録。2010年の軽微な境界変更により、街並みや街道周辺の山並みを含む保護範囲が拡張された。
