概要
大阪平野南部の百舌鳥・古市両エリアに残る、4世紀後半から6世紀前半頃の古墳群。前方後円墳・帆立貝形墳・円墳・方墳が約20~500mの幅広い規模で集中し、ヤマト王権の階層化された権力と高度な葬送制度を視覚的に示す。
見どころ
三重濠を巡らす仁徳天皇陵古墳
墳丘長486m、日本最大の前方後円墳。三重濠と陪冢を伴う幾何学的な巨大墳丘が、5世紀の王権と葬送儀礼の規模を伝える。
市民が守ったいたすけ古墳
1955年の宅地開発計画に対する保存運動で守られた前方後円墳。衝角付冑形埴輪の出土でも知られ、地域参加型保存の原点となった。
地理
大阪府の堺市に百舌鳥エリア、東側の羽曳野市・藤井寺市に古市エリアがあり、いずれも半径約2kmの台地上に古墳が集中する。百舌鳥は4世紀後半~5世紀後半、古市は4世紀後半~6世紀前半の造営を中心とする。登録面積は約166.66ha、緩衝地帯は約891ha。2023年には峯ヶ塚古墳北西角の緩衝地帯が拡張された。
遺産は45の構成資産に含まれる49基で、百舌鳥古墳群は21構成資産23基、古市古墳群は24構成資産26基である。仁徳天皇陵古墳と応神天皇陵古墳の周囲の陪冢をそれぞれ一つの構成資産へまとめるため、構成資産数と古墳数が異なる。前方後円形、帆立貝形、方形、円形という墳形と約20~500mの規模差が被葬者の社会的地位を表し、配置そのものが王権の階層化された権力構造を視覚化している。
巨大古墳は大阪湾を望む台地に造られ、仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳は最長辺を大阪湾へ向け、巨大古墳が造られる権力構造があることを交易相手の国々に対して示すものだった。墳丘斜面の川原石による葺石は威容を強調し雨水から盛土を守り、平坦面には円筒埴輪などを並べた。葺石や埴輪で装飾され幾何学的にデザインされた古墳は単なる墓ではなく葬送儀礼の舞台で、多様な形と規模は高度に洗練された葬送制度の証拠である。
歴史
日本では3世紀中頃から6世紀後半まで、土を高く盛った墳丘をもつ古墳が築かれた。百舌鳥・古市ではその最盛期に、王と王権を支えた有力者の墓が大小さまざまな形で集中した。誉田丸山古墳出土の竜文透彫鞍金具、安閑天皇陵古墳出土のペルシア製ガラス碗、鉄製馬具、金銅製装身具は、東アジアを越える対外交易を物語る。
仁徳天皇陵古墳とされる大仙古墳は5世紀前半の三重の濠をもつ前方後円墳で、墳丘長486mと日本第1位。周囲には10基以上の陪冢があり、後円部の埋葬施設には国内最大級の長持形石棺が置かれ、鍍金甲冑やガラス容器が副葬されたと伝わる。応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳は5世紀前半、墳丘長425mで第2位、三段墳丘と二重の濠・堤をもち、墳丘体積が日本最大。造営時には2万本以上の大型円筒埴輪が並んだと考えられる。履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳は墳丘長約365mで、日本第3位の規模である。
古市の助太山古墳・中山塚古墳・八島塚古墳では、重い石を運ぶ木製そり修羅が出土し、津堂城山古墳からは水鳥形埴輪が見つかった。百舌鳥のいたすけ古墳からは衝角付冑形埴輪が出土した。1955年、宅地開発で失われかけた同古墳を市民運動が守り、古墳保存の象徴となった。
2019年、登録基準(iii)(iv)で登録された。基準(iii)は古墳時代の社会・精神文化と葬送制度の稀有な証拠を、基準(iv)は多様な墳形・墳長・配置・装飾が示す高度に洗練された葬送建築の類型を評価する。一部は宮内庁が陵墓として管理し墳丘への立入りが制限されるため、非破壊調査と保存の両立が課題である。都市開発圧力、墳丘侵食、植生、濠の水質などに対し、定期モニタリングと地域共同体の参加が求められている。
