約半世紀で成し遂げた重工業化を23資産でたどるシリアル・サイト

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining

反射炉の試行錯誤から、鋼・船・石炭が結ぶ工業国家の夜明けへ。

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業のミニチュア

概要

1850年代から1910年までの約半世紀に、日本が西洋の技術を学び、国内の需要と社会的伝統に合わせて改良しながら、製鉄・製鋼、造船、石炭産業を急速に発展させた過程を示す文化遺産。8県11市にまたがる8エリア23資産からなるシリアル・ノミネーションである。

  • 日本
  • 文化遺産
  • 2015年登録
  • 検定3級
  • 検定2級

見どころ

木製台座上に再現した韮山反射炉の精密ミニチュア

稼働した幕末の韮山反射炉にらやまはんしゃろ

江川太郎左衛門英龍が1857年に完成させた連双式2基4炉。大砲鋳造に実際に用いられた反射炉として唯一現存し、試行錯誤の第1段階を象徴する。

海上から見た端島炭坑と護岸遺構

海上に浮かぶ端島炭坑はしまたんこうの護岸

高島炭坑の技術を継いだ海底炭坑。坑口と、ボタで広げられた海岸線を守る護岸遺構が産業遺産としての核心を伝える。

地理

福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島の九州5県と山口・岩手・静岡の計8県11市に分布し、はぎ5資産、鹿児島3資産、韮山にらやま1資産、釜石かまいし1資産、佐賀1資産、長崎8資産、三池みいけ2資産、八幡やはた2資産の合計23資産で構成される。登録面積は約306.66ha、緩衝地帯は約2,408.33ha。遠く離れた炉・鉱山・造船所・港・教育施設・城下町を一つの物語として結ぶシリアル・サイトである。

これらの立地は、原料を得る鉱山と炭坑、製鉄・造船の生産拠点、石炭や製品を運ぶ鉄道・港、水力や工業用水を供給する施設の連鎖を示す。特に三池では採炭・排水・鉄道輸送・港からの海外搬出まで、八幡では製鉄所と遠賀川の水源施設が一体となり、近代重工業の空間構造を今に伝える。

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の風景

歴史

産業化は三段階で進んだ。第1段階の1850~1860年代は、海禁体制下の幕末に国防上の必要から大砲鋳造用反射炉と洋式船建造を試みた時代である。萩ではオランダの技術書と佐賀藩の炉を手本に萩反射炉を築いたが、実用炉ではなく実験炉だったとみられる。恵美須ヶ鼻造船所跡えびすがはなぞうせんじょあとでは長州藩が1856年に丙辰丸、1860年に庚申丸を建造し、大板山たたら製鉄遺跡おおいたやまたたらせいてついせきの伝統的なたたら製鉄で作った和釘などを用いた。萩城下町には城跡・上級武家地・町人地の町割りが残り、吉田松陰の私塾松下村塾しょうかそんじゅくでは海防と西洋の産業・技術を重んじ、伊藤博文ら後の近代化を担う人材を育てた。

鹿児島では島津斉彬が欧米列強に対抗して集成館事業を始め、反射炉跡、旧集成館きゅうしゅうせいかん機械工場、鹿児島紡績所技師館、鹿児島紡績所の遺構などからなる旧集成館を築いた。これは島津家が多様な産業育成に挑んだ日本初の西洋式工場群である。薩英戦争の焼失後は島津久光・忠義父子が再建した。寺山炭窯跡てらやますみがまあとは火力の強い白炭を供給し、関吉の疎水溝せきよしのそすいこうは稲荷川から取水して熔鉱炉や大砲砲身の穿孔用水車を動かした。伊豆の韮山反射炉は江川太郎左衛門英龍が1857年に完成させた連双式2基4炉で、幕末に実際に稼働した反射炉として唯一現存する。釜石の橋野鉄鉱山はしのてっこうざんでは大島高任が1858年、西洋の技術書を頼りに洋式高炉を築き、鉄鉱石を原料とする銑鉄の連続出銑に日本で初めて成功した。佐賀藩の三重津海軍所跡みえつかいぐんしょあとには1858年築造の日本最古のドライドックが地下に残り、国産初の実用蒸気船凌風丸が建造された。

第2段階は1860年代以降、西洋の科学技術と専門知識を直接導入した時代で、1868年の明治維新後に導入が加速した。1869年、薩摩藩とトーマス・グラバーが小菅修船場跡こすげしゅうせんばあとを築いた。日本初の蒸気機関式船舶修理施設であり、現存する日本最古の蒸気機関式曳揚げ装置を備えた洋式スリップドックが残る。旧グラバー住宅は1863年建設の日本現存最古の木造洋風建築で、大浦天主堂を手掛けた小山秀之進の建設と考えられる。蒸気船普及による石炭需要増を見込んだスコットランド商人グラバーと佐賀藩が開発した高島炭坑では、英国人技師モーリスを招き、1869年に日本初の蒸気機関による竪坑である北渓井坑が開坑した。端島炭坑はその技術を継承し、1890年に三菱所有、1891年に出炭開始、1897年には高島を上回った。両炭坑からなる海洋炭鉱群は「高島炭鉱」と総称される。端島の遺産価値は坑口とボタで拡張された海岸線の護岸遺構にあり、廃墟の高層住宅群そのものではない。

第3段階の1890~1910年には、国内人材が移入技術を日本の条件に合わせて改良し、産業化を自立したものにした。三菱長崎造船所第三船渠は1905年開渠の当時東洋最大のドライドックで、電動排水ポンプは現在も稼働する。1909年の三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーンは大型機械を船へ搭載する日本初の電動大型クレーンで、1961年に一度解体・移設された後も現役である。1898年の木骨レンガ造2階建て三菱長崎造船所旧木型場は鋳物木型工場として造船所現存最古の建物で、1985年から資料館となり、1857年にオランダから輸入された日本最古の工作機械竪削盤などを展示する。1904年築の三菱長崎造船所占勝閣は荘田平五郎所長邸として計画され、迎賓館となった曽禰達蔵設計の木造洋館である。

三池炭鉱・三池港宮原坑みやのはらこう万田坑まんだこう、専用鉄道敷跡、三池港からなり、採炭と坑内排水から鉄道輸送、海外搬出までの総合物流を構築した。宮原坑は1931年閉坑後も排水を担い、万田坑には第二竪坑施設が残る。専用鉄道は最盛期約150kmに達し、大型船へ直接積み込める三池港は1908年に完成した。それ以前に輸出を担った三角西港みすみにしこうは、明治政府の三大築港の一つとしてオランダ人水理工師ローウェンホルスト・ムルドルが設計し、日本の石工技術を融合して1887年に開港した。石積み埠頭・水路・排水システムが残る。

官営八幡製鐵所は旧本事務所・修繕工場・旧鍛冶工場からなり、1901年に日本初の銑鋼一貫製鉄所として操業し、1910年には国内鋼材生産の90%以上を担った。1910年操業開始の遠賀川水源地ポンプ室おんががわすいげんちぽんぷしつは河口から約11kmの位置にあるイギリス式レンガ積み2階建ての送水施設で、今も稼働する。1910年以降、これらは自立した工業複合体へ発展した。

登録基準(ii)は西洋からの技術移転を日本の需要と伝統へ適応させ、短期間で重工業を発展させ東アジアにも影響した交流を、基準(iv)は非西洋国家で初めて産業化に成功した技術集合体と工業立国の土台を評価する。これは西洋から非西洋国家への産業化移転が初めて成功した事例であり、2015年登録基準(ii)(iv)で登録された。稼働中資産や民間所有資産も含むため、文化財保護法だけでなく港湾法や景観法なども組み合わせて保護されている。推薦は文化庁ではなく内閣官房が推薦を担った。

参考

  • UNESCOSites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining
  • 書籍『すべてがわかる世界遺産1500 上』(発行:世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局、発売:マイナビ出版)
  • 書籍『くわしく学ぶ世界遺産300〈第5版〉』(発行:世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局、発売:マイナビ出版)
  • 書籍『きほんを学ぶ世界遺産100〈第4版〉』(発行:世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局、発売:マイナビ出版)

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